赤ん坊
2023.1.14
赤ん坊は可愛いですね。cuteです。
赤ん坊単体でもかなりの可愛さを持っているものですが、赤ん坊一体で街角に佇んでいても不安になるだけですね。そう、近くに母親を添えてあげなければいけません。私は性差別主義者ではないという自覚を持って生きていますが、赤ん坊に似合うのは父親ではなく母親だと確信しています。
赤ん坊に母親
刺身に菊、 萩に猪ぐらいぴったりです。そのあまりの完全体風貌に、彼らが街を歩けば下賎の民は額を地につけ、その偉大さに震え上がるほかなくなります。つまり、赤ん坊というものは偉大なのです。偉大さを携えている赤ん坊が、電車やレストランの中といった公共空間 に現れた時、私はひどく弱く、情けない存在になるでしょう。
もし、赤ん坊が泣き声をあげた時、私がいくら不愉快に感じようとも、赤ん坊は何一つ悪くないのです。当たり前です。彼に善悪を説くのはあまりにも無謀だからです。それだけではなく、私の周りにいる善良な一般市民も赤ん坊の横暴を当然のように許容し、その許容を社会に強いる。もちろん、正義はそちらにあるわけです。ええ、わかっています。だから、私は弱く、怯えるしかないのです。
私は赤ん坊に見られているのです。その無垢で何の罪も背負わない眼差しで、私は見られているのです。「お前は社会の一員なのか?」と常に責め立てているのです。私は彼から目を逸らし、「ええ、もちろんですよ」と答えるほかありません。しかし、まだ彼は私を見つめています。大人になっても、私は眼差しを返すことができず、下手に笑って見せます。どこかの街角で彼は、母親と、社会と共に、私を見つめています。
ですから、もし私が親になった時、私の赤ん坊はその眼差しで「お前は私の父親なのか?」と見つめてくることでしょう。その時、 私は彼の目を見つめ返すことができるのでしょうか。その時、私は上手く笑えるのでしょうか。