救世日記

神=私のゆるし

2024.12.15

権力が欲しい!

権力。力ではありません、権力です。力を求めて筋肉をつけたところで、待っているのはナルシズムの充足だけ。世のため、社会のためにはこれっぽっちもなりません。

もしも私が権力を持ったらどんな素晴らしいことをしてやろうか。その想像だけで私の興奮は留まるところをしらず、暴走機関車のようにカーブを曲がりきれず車体の中のものをぶちまけようとしています。

もし新宿で泣いている女がいたらそっとハンカチで涙を拭ってやり、これでいい男でも捕まえなさい、と整形費用を彼女の両手に握らせることでしょう。

もし貧困で喘いでいる可哀想な子供がいたら、よーし今日はパパ張り切って料理しちゃうぞ、と腕をまくりキッチンに立ち、寸胴いっぱいのカレーを振る舞ってやることでしょう。

そういった傲慢とも取れる偉大なる前進、および現状の否定。それをゆるされる力、すなわち権力が今の私には足りないのです。

権力とはゆるされる力である、というのは誰が言った言葉かもしくは誰も言っていない言葉か、それはわかりませんが実に核心をついた言葉だと私は評価します。

よく権力の横暴だなんて言葉がマスメディアで使われることがありますが、それは権力という言葉の誤用です。だってゆるされるのが権力なのだから。横暴がゆるされないものなんて権力ではありません。

こういった理解から見ると、私を含めた権力なき弱者の日常はなんとも窮屈で息が詰まるようなものに思えてきます。毎日毎日限られた選択肢の中からマシな方を選んで他人の顔色を窺う日々。ちょっと大胆にいこうと勇気を出したら、身の程を弁えろとゲンコツが降りかかってきます。

赤く腫れたタンコブをさすりながらふと隣を見ると、ちょっとばかしの権力を持った奴がさも大名といったふんぞり返り方でどすんとあぐらをかいている。こんな阿呆に権力はあるのか、と絶望するも、同時にその阿呆姿を肯定されていることに幾許かの羨望を抱いてしまう。

すなわち、私が言いたいことはゆるされること、肯定されることが全なのです。人は肯定され、ゆるされるからこそ最低限の安心を得ることができ、前に進むことができるのです。

神はあなたをゆるします、だからあなたも人をゆるしなさい。聖書もこう言っていることですし、そろそろ私が権力を望んでもゆるされるんじゃないでしょうか。もしも私が権力を持ったら、あなたのこともきっとゆるしますよ。